スペイン旅行記 22日目。 サグラダファミリア 演奏会
4月22日
泊まっているホテルの粋な計らいで、サグラダファミリアの演奏会に招待してもらった。
「演奏会のチケットがあるんだけど、行く?」
いつものように、変に気取らず、笑顔でそう言ってくれたオーナー婦人の後ろからなぜか光が差して見えた。
目の錯覚かと思い、目をこすって、もう一度婦人を見ると、今度はさわやかな風がどこからか吹いた。
エアコンの室外機のような音と、婦人の後ろをクルマが数回行き来していたので、
おそらくそういうことなのだろう、と、自分を納得させる。
サグラダファミリアの演奏会に行ってきた、その一文だけで、何も知らない人たちからは羨ましく思われるだろうという気持ちから、
もちろん行きます、と、返事をした私だ。
しかし、サグラダファミリアの演奏会とは・・・サグラダファミリアにコネクションでもあるのだろうか。
オーナー婦人、初日から思ってはいただ、やはりただ者ではない気がしてきた。
演奏会は5時からだった。
開演1時間前から入場可能、ともらった用紙に書いてあったので、4時にサグラダファミリアに向かった。
例の行列はまだ消えていなかったが、それとは別に、演奏会用の列が出来ていて、そこに並んで、協会に入った。
中に入ると、夕方の太陽の光を、ステンドグラスが、内部の床や壁を照らしていた。
赤や緑や青や黄色。
様々な光が、協会内部を装飾している。
太陽の光を積極的に使い、時間とともに、表情を変えるように設計されている。
見る時間によって、変化するので、見ていて飽きない。
それが、観賞用ではないことに気付く。
飽きない、と人に思わせることが出来る装飾とはこういうことなのだろう。
対象に時間を感じさせる事が出来る装飾とはこういうことなのだ。
ガウディが偉大な建築家であるかどうかの評価は実はどうでもいい。
ガウディが作ったものだから、というのではないのだ。
その建物に優れたものを感じるから、その設計者が気になる、こういう順番で、評価はされるべきだと私は思っている。
皆が皆、同じ評価を与える必要なんてないし、おそらく同じ評価というものはないだろう。
一個の人間が、万人と同じ考えを持つ、なんて気持ちが悪すぎる。
しかし、そこになにか感じる物がある、という抽象的な気持ちなら、共感できる。
演奏にしてもそうだ。
聖書に書かれた一説が、奏者と演者によって、表現される。
いつまでもここにいて、聴いていたい、私にはそう思えた。
椅子の座り心地は決して良い物ではなかったが、それを超えるコンテンツがそこにあった。
1時間を超えると、身体の一部の感覚が徐々になくなっていった。
それから20分後、演奏が終わった。
手で確認する。
徐々に感覚を取り戻す身体の一部が以前と変わらない様子でそこにあった。
ほっとしたような気持ちというか、安心した気持ちというか、助かったぁというような気持ちみたいな、
そういった類いの気持ちが全身を包んだ。
隣の席を見ると、私と同じような表情でいる、日本人がいた。
その後、彼女との会話の中で、演奏会の感想など、まったくでてこなかったのは言わずもがなである。